公益財団法人 エイズ予防財団
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レッドリボン30周年 Think Together Again

 小さな赤いリボンを逆V字型に折り曲げ、ピンでとめる。今年はエイズ流行40周年、そしてエイズ対策への支援と連帯を示すレッドリボンの30周年にあたります。新型コロナウイルス感染症COVID-19というもう一つの新興感染症のパンデミックが拡大し、世界も日本も大きく動揺した年でもあります。HIV/エイズの流行開始から10年を経て、レッドリボンが登場したのはどうしてなのか。改めて考えてみましょう。
 1991年の春、ニューヨークのイーストビレッジで、Visual AIDS(ビジュアル・エイズ)というグループのアーティストたちが、小さな会合を開きました。エイズで亡くなった人を偲び、厳しい病と闘う人やケアに当たる人への励ましと思いやりの気持ちを示すシンボルを作るための会合です。
 ニューヨークの舞台関係者やアーティストの間でも当時、多数の人がエイズで亡くなっています。次は自分がエイズの原因となるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染するのではないか。そんな恐怖や不安も広がっていました。このことが逆に、HIVに感染している人を遠ざけ、話題にすることすら避けるような社会的雰囲気を生み出してもいました。
 現在の社会の雰囲気と少し似ています。その中で、HIV/エイズについて人びとが話をできるようになるきっかけとして、簡単に作れて誰もが身に着けられるシンボルが必要なのではないか。アーティストたちはそう考えたのです。
 ニューヨーク郊外の住宅街ではそのころ、湾岸戦争の米軍兵士の無事帰還を願う黄色いリボンが庭先の樹木などに結び付けられていました。その黄色いリボンが最初のヒントでしたが、アーティストたちは樹木ではなく、衣服の襟や胸に着けるリボンにすることを選びました。リボンの色は、いくつかの候補がありましたが、最終的に赤になりました。
 Visual AIDS公式サイトの『レッドリボン・プロジェクト』のページには、赤は『血液とのつながりを連想させる一方で、情熱を示してもいます。怒りだけでなく愛も含めた情熱です』と書かれています。
 HIVは血液が主要感染経路の一つなので、赤にはどこかまがまがしいイメージも付きまとうのですが、それを超えた『情熱』がメッセージに託されました。
 初期のレッドリボンの作り方は『赤いリボンを6インチ(約15センチ)の長さにカットして逆V字型に折りたたみ、安全ピンで衣類に着ける』と説明されています。プロジェクトがスタートすると、「Ribbon Bee(リボンビー)」と呼ばれる小さな会合があちらこちらで開かれるようになりました。みんなでレッドリボンを作るための集まりです。
 プロジェクト始動から数週間後の1991年6月2日、ブロードウェイのミンスコフシアターでは第45回トニー賞の授賞式が開かれ、会場に3000本のレッドリボンが届けられました。出席者全員に着けてもらうためです。
 全員、ではなかったものの、プレゼンターの一人である俳優のジェレミー・アイアンズをはじめ、多くの舞台人がレッドリボンを着けました。翌日の新聞でそのことが報じられて知名度が一気に上がり、翌92年のアカデミー賞授賞式でも多くのスターが着用しています。
 また、92年4月20日のイースターマンデーには、ロンドンのウェンブリースタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが開かれ、10万本のリボンが配られました。レッドリボン運動は世界に広がり、日本でも当時、クイーンのファンの人たちが中心になってリボン作りと普及に取り組んでいます。
 国連や各国政府もレッドリボンを重視しています。Visual AIDSのアーティストたちが普及を最優先に考え、著作権フリーとしたことがさまざまな活動を促しました。また、乳がんのピンクリボンなど、他の疾病や社会的課題のキャンペーンでも色違いのリボンが登場しました。
 国連合同エイズ計画(UNAIDS)もHIV/エイズに関係するスティグマや差別の解消を目指す国際的なシンボルとしてレッドリボンを活用しています。
 2001年6月25-27日にはニューヨークで国連エイズ特別総会が開かれ、その前夜にマンハッタンの国連本部ビルの窓に赤いフィルムがリボン型に張り付けられ、夜空にレッドリボンが浮かび上がるライトアップで特別総会の意義を強調しました。
 日本でも全国各地でレッドリボンを理解と連帯のシンボルとしたキャンペーンが実施されてきました。12月1日の世界エイズデーの前には毎年、厚労省主催のレッドリボンライブが開かれています。
 また、「ネイルにレッドリボンを」という日本発の素敵なキャンペーンもあります。ネイルアートに着目し、指先の爪に思い思いのレッドリボンを描き込むことで、「おや?」「これはね・・・」とコミュニケーションの輪が広がり、メッセージが指先から伝わることで、親密さも一段と増しています。
 もともとは民間企業のサンスター株式会社広報課でエイズ啓発に取り組んでいた女性が、ネイルアーティストの皆さんと協力して始め、その後、「シェア=国際保健協力市民の会」がキャンペーンを引き継ぐなど、様々な人たちの手で指先のメッセージは広がっていきました。
 レッドリボンは、10年に及ぶエイズ対策初期の動揺を経て生まれました。新興感染症のパンデミックによる恐怖と不安と混乱の中から、人びとが連帯と信頼を取り戻し、闘う力を獲得してきた、その歩みの象徴でもあります。
 COVID-19というもう一つのパンデミックにも直面するいま、レッドリボンの経験を新たな危機への対応に生かしていくには、どうしたらいいのでしょうか。
 もちろん、エイズは終わっていないということも忘れることはできません。終わるどころか、COVID-19パンデミックの影響で、流行が再び拡大に転じる懸念も強まっています。
 ウイルスによって隔てられた人と人との距離を物理的には受け止めつつ、その分断を乗り越え、信頼のきずなを取り戻していく。それが可能であることをもう一度、レッドリボンの30年を振り返りつつ、Think Together Again:一緒に考える機会にしましょう。
(テキスト 宮田一雄)

以下のサイトを参考にしました。

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